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今日は、64回目の終戦記念日です。
“不戦”の誓いを新たに・・・。
15年にわたる戦争は日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上(63年の厚生省発表)の犠牲をもたらしました。
僕たちは、新聞やTV等の報道、教科書も含めて、戦争による“被害”にばかり目を向けてしまう。
もちろんそれは悪いことではなく、僕たちの祖父や祖母たちが受けた悲しみや苦しみ、痛みを見つめることはとてもとても大事なことです。
特に、核廃絶を目指す世界において、唯一の被爆国として、広島や長崎の悲しみを忘れないこと。
アメリカ大統領として核廃絶を訴える歴史的な演説をしたオバマを、広島も長崎も支持していくことを表明しました。
この流れをさらに大きな流れにしていき、この世界から核を、さらにあらゆる戦争をなくすために生かしていかなければなりません。
しかし、戦争にはもう一つ、見つめるのはつらいけれど、目を背けてはいけない面があります。
それは、“加害者”としての戦争。
日本の侵略戦争は、アジア・太平洋各国に2000万人以上の死者をふくむ史上最大の惨害をもたらしました。
中国1000万人以上(「中国の人権状況」中国国務院=ただし37年7月~45年8月まで。他に2000万人との報告もある)、べトナム200万人(独立宣言)、インドネシア400万人(サンフランシスコ講和会議での同国代表発言)、フィリピン111万1938人(対日賠償要求)、インド150万人(べンガル飢餓死者のみの推計、政府任命飢餓調査委員会)、ニュージーランド1万1625人(政府公表)、オーストラリア2万3365人(同)、そのほか泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)など。ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞいても、これら諸国の公的発表の死者数だけでも1872万から2872万人を数えます。さらに日本の植民地支配のもとにおかれた朝鮮では、36万4186人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、死亡・行方不明者15万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ20万をこえる人びとが犠牲となりました。
このことに目を背けてしまっては、本当の意味で“不戦”や“平和”を語ることはできない。
「もう昔のこと」ではないんです。
今も僕たちの身近な人たちの戦争の苦しみが生々しく続いているように、僕たちの身近な人たちが傷つけてしまった隣人たちの苦しみも消えることなく続いているのです。
それは、とてもとてもつらいことです。
それを思う度に、心は暗く重くなります。
僕たちは、その人たちやその子どもたちと出会って、どうしていけばいいのだろう。
僕はそれを悩み続けています。
僕には“正解”はわかりません。
でも、受けた傷からも与えた傷からも目を背けないこと。忘れないこと。
そして、なによりも人としての繋がりを大切にしていくことしか、僕にはできないんです。
これからもずっとずっと悩んで、考えて、多くの人と共にこの“素晴らしい世界”で、僕は生きていきます。
原爆の広島を描き出した名作。
「被爆日記」を綴る閑間重松、“黒い雨”に打たれた重松の姪矢須子、原爆を落とされた人間が「生きる」とはどのようなことか。
そこに生きた人間が中心に据えられているからこそ、これほど長く読み継がれているのでしょう。
400頁足らずの文章が、途方もなく長く苦しいものでした。
被爆した人間の描写は、まさに凄惨です。
何度も吐き気を覚え、想像することさえ躊躇うようものです。
それでも、僕は本当の戦争も、原爆の強烈な光や熱も、黒い雨も“知らない”のです。
もちろんそれは知らないほうが幸せなことです。
でも、忘れてしまってはいけないことです。
その傷の、何千万分の一、何億分の一でもこの身に刻むためにはどうすればいいのだろう。
いつまでも忘れないように、もう二度と繰り返させないように。
64年たっても、癒えない傷がある。
64年たっても、忘れられないことがある。
64年たっても、終わらない戦争がある。
64年たっても、忘れてはならない日がある。
64年たっても、忘れてはならない想いがある。